広瀬ゆうとのプロフィール
松戸市出生からサッカー漬けの高校時代

千葉県松戸市串崎南町で生まれ、あさひ幼稚園に入園。
4歳(年中)から園内クラブのFCダムに所属し、サッカー漬けの日々が始まります。
小学校は松飛台第二小学校に入学。
校庭が広い学校だったのでいつも外で遊んでいました。
また、入学と同時に幼馴染の誘いがあり、まつひだいSCに所属しました。

4年生の頃からは、責任ある「10番」という背番号をいただき、キャプテンを務めました。
身体が小さく、運動神経が突出しているわけでもなかった私は、どうすれば上手くなれるのか・どうすれば勝てるのかなど、「自分で考える」ということ、そして何よりも「真剣に楽しむ」ことの大切さを学びました。これは今でも生きる上でのポリシーとなっています。

中学校は、引っ越しの関係で小学校とは少し離れた常盤平中学校に入学。
小学生時代の友達が誰もいない状況で迎えた入学式はとても不安だったのを今でも覚えていますが、三年生の頃は学級委員を務め、素敵な友人に囲まれ卒業することができました。
サッカーでは部活動ではなく、クラブチームであるFCクラッキス松戸に所属し、関東大会などを経験しました。素晴らしい指導者の方々とチームメイトに恵まれながら、辛いことを率先してやることや、妥協しないこと、相手を思いやることなど、技術面だけでなく、サッカーを通して人としての在り方を学ぶことができました。

高校では、初めて松戸市を出て我孫子高校に入学。
高校時代が一番サッカーに没頭した日々でした。OFFの日でも学校に行き、チームメイトと自主練をするくらい、休まずサッカーに取り組んでいました。副部長を務め、組織の引っ張り方やまとめ方など、リーダーシップを養う素晴らしい機会となりました。
多くのことを学んだ大学時代

大学は一般入試で拓殖大学政経学部法律政治学科に入学。
大学時代は、学業・アルバイト・証券会社入社のきっかけにもなった資産運用の勉強に励みました。
学業では、政治・法律・経済など、満遍なく学びま、特に大学2年生の時に大学の研修制度で、環境先進国であるドイツに短期留学に行き環境問題について学びました。
環境問題に関しては、持続可能な街づくりをしていく上で欠かせない問題だと思いますので、この時の経験もいかし今後も深掘りし、取り組んでいきたいと思っています。

アルバイトでは、サッカースクールのコーチとして3歳から12歳までの子供を対象に指導者として活動しました。
指導する難しさを学ぶと同時に、子供たちのパワフルな姿を見て、私自身も元気をもらっていました。
これからも子供たちが笑顔で元気に過ごしていけるような街づくりをしていきたいと思います。

学業やアルバイトと両立し、資産運用の勉強も行いました。
小泉政権の頃に「貯蓄から投資へ」というスローガンが生まれ、その後アベノミクスの真っ只中を過ごしていました。
これからは金融知識も身につけなければ!と思い独学での勉強や、実際にアルバイトで貯めたお金で株式投資を経験しました。
しかし、中々上手くいかず、実際に中の世界に入ってみたい!と思うようになり、証券会社への入社を決めました。
社会人時代

証券会社に入社し営業職として務めました。
全国転勤のある会社ですが、偶然にも千葉県内の支店に配属となり松戸市に住み続けることができました。
証券会社では、株式投資や資産運用についてはもちろん、政治政策が経済に与える影響を直に学ぶことができました。
また、営業職として個人・法人を問わず多くのお客様とお取引させていただき、リスクが伴う商品を扱う仕事でありながらも、多くのお客様の暖かさに恵まれ職務を全うすることができました。
特に、対面の証券会社を利用するお客様は60歳以上の方が多く、人生の大先輩方から礼儀礼節や社会人としてのマナーを学ぶことができました。

新型コロナウイルスの影響で、多くの方の生活は一変し、子供たちは大事な青春時代を奪われてしまいました。就労世代の方々は飲み会などを控え人とコミュニケーションを取る機会がとても減り、ご高齢の方々は里帰り控えなどでご家族と会う機会が奪われてしまったと思います。(私も祖父祖母と同居しておりましたが、感染対策のため顔を合わせるのを控えていました。)
これは私の地元松戸市でも例外ではなく、街全体として活気が失われていました。
生まれ育った松戸市が大好きだからこそ、若い力を活かし、子供からご高齢の方々まで、全世代が明るく元気に生活し、豊かな行政・福祉サービスを受けられ、活気あふれる街づくりをしたいと思い市政挑戦を決意しました。